航空写真との出会い
航空写真
小学校の卒業文集にはパイロットになりたいと書いてありました。中学、高校とまったくその夢に触れることなく過ごし、写真と出会い、写真専門学校へ。写真専門学校で教わることをはもう無い!と、言い切って、その1989年当時激動であった東ヨーロッパへ旅をすることに。
Tri-Xの長尺モノクロを大量に持っていきながら、初めてのバックパッカーがソ連、東ヨーロッパという過酷な状況にいいとこ育ちの奴は2ヶ月で帰ってくることに。
その後、目指す夢を変更。というか、当初の通り、パイロットの夢を目指すことに。
自費でヘリコプターの免許をとりつつも航大受験、自社養成の道を模索。とりあえず、ライセンスの費用を稼ぐために夜間のトラックドライバー、バイク便などをこなす。
1995年に自家用のヘリコプターのライセンス取得。しかし、プロパイロットとは程遠い経験、資格。
自家用のヘリコプターを飛ばしながら航空写真を撮影、航空写真を販売する会社を見つけ就職。日本の空をそれこそ北海道から九州南端まで飛び回ることに。
それ以前から制作していたHPに空撮カメラマンの写真日記的な文章を書き始める。まだブログのブの字もない時代である。
ネパール、そして
日本中を旅する航空写真カメラマン、聞こえはいいが、プライベートはズタボロである。早くから結婚していたが、それも解消、再びの独身である。その他にも精神的には傷を受け、30代にしてまたバックパッカーをすることにしてみる。選んだのはネパール。とにかく冷たい空気と険しい世界に身を置きたかった。
5500mのゴーキョ・ピークまでトレッキングもした。ヘリコプターでは到底上がれない高度に、生身の人間で息も絶え絶えながらちゃんと写真も撮っている。そして、空の色はもう成層圏が近い蒼の色。求めていた蒼はパイロットでなくても見ることができた。空気が薄いくせに風は強く、夜の−30度の寒さでまともに寝られない。しかし、そんな体験とは裏腹に頭はクリアになっていった。
写真が撮りたい。空撮で。航空写真で。日本に戻ってたくさん航空写真を撮る道に戻ろう。
そんな想いだった。
とにかく温かいところに行きたかったので、無謀にも5月のバンコクに寄ることにする。ま、あまりの暑さにダウン気味で、何気なく寄った書店でまず目に飛び込んできたこの写真集。ヤン・アルテュスベルトラン氏の世界の航空写真集。これは、もう、航空写真やれってことだろ?
空撮映像、そして。
軍事、飛行機系のカメラマン、柴田三雄氏に師事したり、飲食店の経営などに浮気した後に、
航空写真のフリーカメラマン、そして、法人化、映像も撮影することになる会社、ヘリテック・エアロサービスを小川氏と立ち上げる。自分でヘリを借り、自分たちで飛ばす。航空写真と簡易防振台を使い、空撮専門の会社を運営しつつの生活。カメラマンという職人、アートな方向と経営という二足の草鞋を履きながらである。そして、会社も大きくなり、事業会社として、空撮専門の航空会社として東京ヘリポートに籍を置くことになる。
その途中に、テレ朝の番組でヤン氏と映画「HOME」(空撮映像のみで世界中を撮影した映画)の撮影で東京の空を飛ぶことも経験。彼の撮影スタイルと目線、こだわりを肌で感じる。
自社機、空撮スタビライザーなどを手に入れて、テレビ東京系の「空から日本を見てみよう」の空撮メインカメラマンに。今度は映像撮影カメラマンとして日本中を飛び回ることに。
全72話、8割以上を空撮、すべての回に自分の空撮映像が入る仕事となる。
新しい空撮専用機を手に入れ、CM、映画も撮影を開始。
しかし、株主との経営方針の違いから会社を離れ、フリーに。
やっと、経営者とアーティストという二足の草鞋を脱ぎ捨てて、写真と映像を突き詰めることに専念できるように。